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太田三砂貴さんの育った家庭環境は、どのように想像されますか?
両親は、教授か教育関係の人?そのように思ってしまいますよね。
しかし、まったく予想に反して、普通の家庭環境のなかで育ちました。
なぜ?、5億人に1人という日本歴代最高の知能指数の持ち主が一般の家庭から生まれてきたのか?
少し腑に落ちない この何故が 、多くの人のもっとも大きな関心事となっています。
エピジェネティックス
エピジェネティックスという言葉、遺伝子を語るうえで非常に興味のある言葉です。
私なりの解釈のなかで書いていきますと、遺伝子とDNAは、厳密には少し違う解釈をされるそうですが、そうした遺伝子は代を重ねて働いていき繋がっていきます。
しかし、まれにDNA情報を無視した変化が生じることがあるそうです。
それはDNAの配列はそのままなのに、受け継いだその人の特徴が変わることがあるということです。
その変化はなぜ起こるのか、ということを研究する学問のことをエピジェネティックスといいます。
簡単にいうと、太田三砂貴さんという天才は、突然変異なのか、どうなのか?そうしたことを研究する学問なのだと思います。
ルーツを辿る
1度目の番組放映の後、太田さんは、あることを思いだしたと番組に連絡をしてきました。
それは高校三年生の時に函館に住む親せきの家に行ったとき、ある一冊の歌集に惹きつけられたそうです。
作者は、太田光夫さんという男性で「雪明り」という歌集を出版されていました。
その歌集を読んだとき、その感性が自分と同じだと思ったそうです。
叔母の八重子さんに聞くと、光夫さんは14年前にすでに亡くなっていました。
家系図をさかのぼると、太田三砂貴さんにとって光夫さんは父方の祖父の兄にあたります。
そして光夫さんの妻である富枝さんは当時92歳で娘の直子さんとともに、詳しく光夫さんの話を聞くことが出来ました。
夫の光夫さんは、7人兄弟の三男として生まれ、幼いころから秀才として知られていました。
戦時中を生き延びていきましたが、終戦後に当時不治の病であった肺結核を患ってしまいます。
そのため20代のほとんどを病院で過ごし、そのときに短歌を作るようになったそうです。
すぐに才能を開花させ、周囲にも実力を認められ、短歌結社「潮音」の理事を務めることになりました。
生涯で2000首もの作品を生み出し、北海道の文化を栄えさせたという功績で賞も受賞されています。
平成16年に78歳で光夫さんは亡くなられました。
その光夫さんが生前にいつも語っていたのが、自分よりもっと天才の兄弟がいたという話しです。
それは、太田英男さん。
7人兄弟の次男として生まれた英男さんの写真を見ると、太田三砂貴さんと顔がそっくりなのです。
兄弟で一番の天才といわれていた英男さんは、悲劇の天才でした。
24歳の時、沖縄で戦死されています。
この家系図、そして三砂貴さんとそっくりな英男さんの写真、天才である彼との繋がりを感じさせるいろいろな事例、こうしたことは番組が取り上げたことです。
そうしたことを前提として考えてみます。次男である英男さんは沖縄で戦死されています。
そして、前回に書いたような三砂貴さんの感性『小学生のころ、遊んでいる友だちを見ていて自然と涙が出てきたそうです。その遊んでいる姿は、「平和で美しい」と。』
その涙は、三砂貴さんの涙なのか、若くして沖縄で戦死した英男さんの涙なのか、不思議な縁、繋がりを感じます。
三砂貴さんは、現在琉球大学の学生です。
遺伝子の生まれ変わり
親から子へ生物の特徴を伝えることを遺伝といいます。
そして、その遺伝情報を伝えるもののことは遺伝子です。
また、遺伝によって受け継がれる特徴のことを形質といいます。
遺伝子とは親から子へ形質(特徴)を伝える情報そのものです。
これらは、今では中学3年生で習うことだそうです。
こうしたことを考えてみて、遺伝子とは、育った家庭環境のなかだけで理解できるのではなく、ずっと遡った形質を見つめたときに、初めて見えてくるということなのだろうと思います。
遺伝子を出現させるには、オンとオフがあるそうです。
まとめ
・エピジェネティックスとは?
・太田三砂貴さんのルーツを辿る。父方の祖父の兄・英男さんとは?
・遺伝子の生まれ変わり
次回は、オンとオフ。そして、姫岡優介さん
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