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毛利元就
「三本の矢」で知られる毛利元就は、安芸の小領主の次男として生まれました。
元就の幼名は、松寿丸(しょうじゅまる)。松寿丸と聞いて、あれっと思われた方もいるかも。ちなみに松寿丸は、日本史上において複数の人物が名乗っていた幼名です。築前国福岡藩の初代藩主・黒田長政もそうです。
1501年5歳の時、実母が、そして10歳の時、父・弘元が亡くなると、松寿丸は家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまいます。
その後の生活は、言うまでもなく非常に厳しいものでした。こうした様子を見かねて、父・弘元の継室・杉大方(すぎのおおかた)が松寿丸を養育します。
この出来事は元就の人生に大きく影響するものとなり、後に半生を振り返った元就は「まだ若かったのに大方様は自分のために留まって育ててくれた。私は大方様にすがるように生きていた。」と養母について回想しています。
また、このとき杉大方様は、松寿丸に朝日を拝む「念仏信仰」を教え、元就はこの「朝の念仏」を一生欠かさなかったとされています。それは、教訓状にも記されています。
彼は、27歳で毛利家を相続し、一代で中国地方のほぼ全域、8か国(安芸、備後、周防、長門、石見、出雲、伯耆、隠岐)を支配する大大名へと躍進していきます。

毛利家の家紋
この一の下に三個の円を配置した家紋は、「一文字三つ星」といわれています。
また、この家紋は、「三本の矢」に由来するものだと思われがちですが、全く無縁のものです。
といいますのは、「三本の矢」は元就がいよいよ最後の時、枕元に三人の息子を呼び寄せ、この逸話を伝えたとあります。
しかし実際は、元就が亡くなるよりも前に嫡男の隆元は亡くなっており、この逸話も存在することのない、創造のものであると言われています。
しかし、この「一文字三つ星」の家紋と「三本の矢」の逸話。関係があるものと思いがちですよね。
元就の訓戒と強さの秘密
元就の根幹にある有名な言葉があります。
嫡男・隆元に遺した訓戒の一つです。
能や芸や慰め、何事も要らず。
武略、計略、調略こそが肝要にて候。
謀多きは勝ち、少なきは負ける。
能や芸などは慰めごとにしかならず、策略こそが肝心なものである。
そして、謀が多ければ戦に勝つことが出来るが、少なければ、その戦は負けるとまで言っています。
武力衝突、戦が起こるまでの前段階、前時間、ここが一番肝心である。そこにこそ、武略、計略、調略をせよ、と。
徹底した策略家です。元就は、「周到な策略」でもって、戦国時代の三大奇襲戦と言われている「厳島の戦い」に挑みます。
厳島の戦い

毛利の軍は、4000人ほどの兵。
それに対して陶晴賢(すえはるかた)の軍は20000人。
普通では、勝負にならないくらいの圧倒的な兵力の差です。
しかし、ここで元就は、考えられる限りの謀略を張り巡らし、毛利に有利な方向へと進めます。
最初にとった行動は、敵の内側から崩す作戦です。
謀略で晴賢とその家臣を引き離しに掛かりました。
まず、晴賢の重臣である江良房栄(えらふさひで)。元就は、房栄を味方に付けようと根回しをしますが、上手くことは運びませんでした。寝返りの工作は失敗に終わります。
しかし、諦めることなく次に打った一手は、「房栄が謀反を企てている」という噂を晴賢周辺に流すことでした。
元就は、人間の心理を痛いほど突いてくる人物であったのかもしれません。
そして、タイミングよく房栄が晴賢に諫言することがあり、晴賢は「もしや謀反の噂は本当なのでは、元就と通じているのか。」と疑いはじめ、房栄を殺してしまいました。
晴賢は、元就の術中に陥り、大事な家臣を失いました。もし、房栄が生きていたならばという、歴史のなかにおいて「もしも」が生まれてくる大事な厳島の戦いの前哨戦でした。
元就は、武勇・知略においても傑出した才能をみせています。
まず、行き当たりばったりに戦うのではなく、自分が勝てる確率の高い舞台を用意周到に作り、そこへ敵を誘き寄せる作戦を立てます。
そして、厳島を決戦の舞台にするならば勝てると読んでいました。
陸上よりも援軍の来ない孤立した島で奇襲をかける。さらに水軍を擁する晴賢軍は、厳島を通って安芸に入るはずだと予想し、晴賢が厳島へ来るようにと、あらゆる策謀を張り巡らしました。
厳島に城(宮尾城)を築くことも、その一つです。
晴賢は元々は、大内氏の家来でした。しかし、大内氏に反旗を翻して、滅亡へと追いやった人物です。あろうことか、その元大内の家臣の己斐氏と新里氏を城内に置き、重鎮として扱い、晴賢の神経を逆なでにしました。
さらに、「今、晴賢殿が厳島に渡って、宮尾城を攻撃すればとても勝ち目はない。」という噂を流す、それほどの徹底ぶりでした。
用意周到にことを運び、1555年の「厳島(いつくしま)の戦い」が始まります。
結果は、上述した通りです。
毛利元就、すごいですね。いくら不利な状況でも、あらゆる手立てを講じて、勝利へと導いていく。
毛利家は、関ヶ原の戦いで、西軍の大将に推されながらも、江戸時代を生き抜いていきました。
元就の教えからくるものだと思います。
三矢の教え
ある時、毛利元就が三人の息子たちを枕元に呼びよせ、「一本の矢を折ってみろ。」と言いました。もちろん息子たちは、すぐにその矢を折ってみせました。
それを見ていた元就は、「次は、一本の矢を三本に重ねて折ってみろ。」と言います。
3人は、それぞれ精一杯の力を入れましたが、ひとり、ひとりの力では折れませんでした。というのが、有名な「三本の矢」です。
しかし、この話しは、このような状況のなかで生まれた話しではなく、「三子教訓状」の中にしたためられているものです。
14条からなる教訓状
そのなかには、私は多くの戦で勝利を得てきたが、それだけに多くの人間からも恨まれ、憎まれてもいる。
そのような環境の中では、息子たち3人が好きなことをやっていては、家は潰れてしまう。
とにかく長男を疎かにしないでくれ。と、切々と説いています。
第二条には、
元春と隆景はそれぞれ他家(吉川家・小早川家)を継いでいるが、毛利の二字を疎かにしてはならぬし、毛利を忘れることがあっては、全くもって正しからざることである。これは申すにも及ばぬことである。
更に第五条には、
心根を絞るように、この間も申したとおり、毛利隆元は、吉川元春・小早川隆景と意見が合わないことがあっても、長男なのだから親心をもって毎々、よく耐えなければならぬ。
また元春・隆景は、隆元と意見が合わないことがあっても、長男だからおまえたちが従うのがものの順序である。と、言っています。
現代においても親の心が溢れる言葉だなと思います。
そして、次の第十二条では、「念仏信仰」にまでも思いを寄せ、説いています。
第十二条には、
十一歳のとき、猿掛城のふもとの土居に過ごしていたが、その節、井上元兼の所へ一人の旅の僧がやってきて、念仏の秘事を説く講が開かれた。
大方様も出席して伝授を受けられた。
その時、私も同様に十一歳で伝授を受けたが、今なお、毎朝祈願を欠かさず続けている。
それは、朝日を拝んで念仏を十遍ずつとなえることである。そうすれば、行く末はむろん、現世の幸せも祈願することになるとのことである。
また、我々は、昔の事例にならって、現世の願望をお日様に対してお祈り申し上げるのである。
もし、このようにすることが一身の守護ともなればと考えて、特に大切なことと思う故、三人も毎朝怠ることなくこれを実行して欲しいと思う。
もっとも、お日様、お月様、いずれも同様であろうと思う。
その「三本の矢」の逸話を遺した毛利元就 そして息子3人
その一人、吉川元春のお墓が錦帯橋の近くにあります。
これからの錦帯橋周辺は、素晴らしい紅葉の季節となります。

ちなみに、「サンフレッチェ広島」広島のプロサッカークラブですが、クラブの名前、「サンフレッチェ」は「三矢の教え」にちなんだ造語です。
日本語の「三」とイタリア語で矢を意味する「フレッチェ」をくっつけたものだそうです。
まとめ
毛利元就の幼少時は、父母が亡くなった後、城を追い出され苦難の道を歩む。そうしたなか、杉大方が養母として、元就を育てました。
「厳島の戦い」を勝利に導いた最大の要因は、元就の用意周到な戦術のおかげです。
息子たち三人に遺した「三本の矢」の教えは、毛利家の教訓として遺っていきます。
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