「三本の矢」一矢は、岩国に。

11月の秋の紅葉時期。参道を鮮やかな紅葉が色づいてます。 歴史

毛利元就

「三本の矢」で知られる毛利元就は、安芸の小領主の次男として生まれました。

元就の幼名は、松寿丸(しょうじゅまる)。松寿丸と聞いて、あれっと思われた方もいるかも。ちなみに松寿丸は、日本史上において複数の人物が名乗っていた幼名です。築前国福岡藩の初代藩主・黒田長政もそうです。

1501年5歳の時、実母が、そして10歳の時、父・弘元が亡くなると、松寿丸は家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまいます。

その後の生活は、言うまでもなく非常に厳しいものでした。こうした様子を見かねて、父・弘元の継室・杉大方(すぎのおおかた)が松寿丸を養育します。

この出来事は元就の人生に大きく影響するものとなり、後に半生を振り返った元就は「まだ若かったのに大方様は自分のために留まって育ててくれた。私は大方様にすがるように生きていた。」と養母について回想しています。

また、このとき杉大方様は、松寿丸に朝日を拝む「念仏信仰」を教え、元就はこの「朝の念仏」を一生欠かさなかったとされています。それは、教訓状にも記されています。

彼は、27歳で毛利家を相続し、一代で中国地方のほぼ全域、8か国(安芸、備後、周防、長門、石見、出雲、伯耆、隠岐)を支配する大大名へと躍進していきます。

一の字の下に3つの丸い模様があしらわれています。これが毛利家の家紋です。
毛利家の家紋

毛利家の家紋

この一の下に三個の円を配置した家紋は、「一文字三つ星」といわれています。

また、この家紋は、「三本の矢」に由来するものだと思われがちですが、全く無縁のものです。

といいますのは、「三本の矢」は元就がいよいよ最後の時、枕元に三人の息子を呼び寄せ、この逸話を伝えたとあります。

しかし実際は、元就が亡くなるよりも前に嫡男の隆元は亡くなっており、この逸話も存在することのない、創造のものであると言われています。

しかし、この「一文字三つ星」の家紋と「三本の矢」の逸話。関係があるものと思いがちですよね。

元就の訓戒と強さの秘密

元就の根幹にある有名な言葉があります。

嫡男・隆元に遺した訓戒の一つです。

能や芸や慰め、何事も要らず。

武略、計略、調略こそが肝要にて候。

謀多きは勝ち、少なきは負ける。

能や芸などは慰めごとにしかならず、策略こそが肝心なものである。

そして、謀が多ければ戦に勝つことが出来るが、少なければ、その戦は負けるとまで言っています。

武力衝突、戦が起こるまでの前段階、前時間、ここが一番肝心である。そこにこそ、武略、計略、調略をせよ、と。

徹底した策略家です。元就は、「周到な策略」でもって、戦国時代の三大奇襲戦と言われている「厳島の戦い」に挑みます。

厳島の戦い

朝方に雨が降り始め、満潮時に神社から眺めた鳥居。
満潮時に厳島神社から見た鳥居

毛利の軍は、4000人ほどの兵。

それに対して陶晴賢(すえはるかた)の軍は20000人。

普通では、勝負にならないくらいの圧倒的な兵力の差です。

しかし、ここで元就は、考えられる限りの謀略を張り巡らし、毛利に有利な方向へと進めます。

最初にとった行動は、敵の内側から崩す作戦です。

謀略で晴賢とその家臣を引き離しに掛かりました。

まず、晴賢の重臣である江良房栄(えらふさひで)。元就は、房栄を味方に付けようと根回しをしますが、上手くことは運びませんでした。寝返りの工作は失敗に終わります。

しかし、諦めることなく次に打った一手は、「房栄が謀反を企てている」という噂を晴賢周辺に流すことでした。

元就は、人間の心理を痛いほど突いてくる人物であったのかもしれません。

そして、タイミングよく房栄が晴賢に諫言することがあり、晴賢は「もしや謀反の噂は本当なのでは、元就と通じているのか。」と疑いはじめ、房栄を殺してしまいました。

晴賢は、元就の術中に陥り、大事な家臣を失いました。もし、房栄が生きていたならばという、歴史のなかにおいて「もしも」が生まれてくる大事な厳島の戦いの前哨戦でした。

元就は、武勇・知略においても傑出した才能をみせています。

まず、行き当たりばったりに戦うのではなく、自分が勝てる確率の高い舞台を用意周到に作り、そこへ敵を誘き寄せる作戦を立てます。

そして、厳島を決戦の舞台にするならば勝てると読んでいました。

陸上よりも援軍の来ない孤立した島で奇襲をかける。さらに水軍を擁する晴賢軍は、厳島を通って安芸に入るはずだと予想し、晴賢が厳島へ来るようにと、あらゆる策謀を張り巡らしました。

厳島に城(宮尾城)を築くことも、その一つです。

晴賢は元々は、大内氏の家来でした。しかし、大内氏に反旗を翻して、滅亡へと追いやった人物です。あろうことか、その元大内の家臣の己斐氏と新里氏を城内に置き、重鎮として扱い、晴賢の神経を逆なでにしました。

さらに、「今、晴賢殿が厳島に渡って、宮尾城を攻撃すればとても勝ち目はない。」という噂を流す、それほどの徹底ぶりでした。

用意周到にことを運び、1555年の「厳島(いつくしま)の戦い」が始まります。

結果は、上述した通りです。

毛利元就、すごいですね。いくら不利な状況でも、あらゆる手立てを講じて、勝利へと導いていく。

毛利家は、関ヶ原の戦いで、西軍の大将に推されながらも、江戸時代を生き抜いていきました。

元就の教えからくるものだと思います。

三矢の教え

ある時、毛利元就が三人の息子たちを枕元に呼びよせ、「一本の矢を折ってみろ。」と言いました。もちろん息子たちは、すぐにその矢を折ってみせました。

それを見ていた元就は、「次は、一本の矢を三本に重ねて折ってみろ。」と言います。

3人は、それぞれ精一杯の力を入れましたが、ひとり、ひとりの力では折れませんでした。というのが、有名な「三本の矢」です。

しかし、この話しは、このような状況のなかで生まれた話しではなく、「三子教訓状」の中にしたためられているものです。

14条からなる教訓状

そのなかには、私は多くの戦で勝利を得てきたが、それだけに多くの人間からも恨まれ、憎まれてもいる。

そのような環境の中では、息子たち3人が好きなことをやっていては、家は潰れてしまう。

とにかく長男を疎かにしないでくれ。と、切々と説いています。

第二条には、

元春と隆景はそれぞれ他家(吉川家・小早川家)を継いでいるが、毛利の二字を疎かにしてはならぬし、毛利を忘れることがあっては、全くもって正しからざることである。これは申すにも及ばぬことである。

更に第五条には、

心根を絞るように、この間も申したとおり、毛利隆元は、吉川元春・小早川隆景と意見が合わないことがあっても、長男なのだから親心をもって毎々、よく耐えなければならぬ。

また元春・隆景は、隆元と意見が合わないことがあっても、長男だからおまえたちが従うのがものの順序である。と、言っています。

現代においても親の心が溢れる言葉だなと思います。

そして、次の第十二条では、「念仏信仰」にまでも思いを寄せ、説いています。

第十二条には、

十一歳のとき、猿掛城のふもとの土居に過ごしていたが、その節、井上元兼の所へ一人の旅の僧がやってきて、念仏の秘事を説く講が開かれた。

大方様も出席して伝授を受けられた。

その時、私も同様に十一歳で伝授を受けたが、今なお、毎朝祈願を欠かさず続けている。

それは、朝日を拝んで念仏を十遍ずつとなえることである。そうすれば、行く末はむろん、現世の幸せも祈願することになるとのことである。

また、我々は、昔の事例にならって、現世の願望をお日様に対してお祈り申し上げるのである。

もし、このようにすることが一身の守護ともなればと考えて、特に大切なことと思う故、三人も毎朝怠ることなくこれを実行して欲しいと思う。

もっとも、お日様、お月様、いずれも同様であろうと思う。

その「三本の矢」の逸話を遺した毛利元就 そして息子3人

その一人、吉川元春のお墓が錦帯橋の近くにあります。

これからの錦帯橋周辺は、素晴らしい紅葉の季節となります。

岩国藩の藩主、吉川(きっかわ)家の墓所として知られている。

ちなみに、「サンフレッチェ広島」広島のプロサッカークラブですが、クラブの名前、「サンフレッチェ」は「三矢の教え」にちなんだ造語です。

日本語の「三」とイタリア語で矢を意味する「フレッチェ」をくっつけたものだそうです。

まとめ

毛利元就の幼少時は、父母が亡くなった後、城を追い出され苦難の道を歩む。そうしたなか、杉大方が養母として、元就を育てました。

「厳島の戦い」を勝利に導いた最大の要因は、元就の用意周到な戦術のおかげです。

息子たち三人に遺した「三本の矢」の教えは、毛利家の教訓として遺っていきます。

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ヨーキ
◇こんにちは! ヨーキやです。 山口県岩国市に住んでいます。 (1957年2月14日生 62歳) 岩国は、名酒の産地としても有名ですよ。 ◇8年前に妻を癌で亡くして以来、未婚です。 ◇ボランティア活動として教誨師などをしています。 ◇家族構成は、母、息子夫婦の4人です。  母がだんだんと認知症を患っていき、その初動としてどのように動い   ていったら良いのか、多くの失敗談なども含めて書いていけたらと思い  ます。  一日は、陽気を信念として。